今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』の主人公は、日本海軍の大佐でありながら、「ユダヤ問題研究家」としても知られる犬塚惟重(いぬづかこれしげ)大佐。陸軍所属で同じくユダヤ問題の研究家でもある安江仙弘(やすえのりひろ)大佐とともに、世界中で酷い扱いを受けていたユダヤ人の保護活動を続けていました。犬塚大佐は一体どんな思いで彼らを見つめ、守り抜いたのでしょうか?

ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐

1982年3月12日付けエルサレム・ポスト誌にタブロイド判1頁を費やして次のような記事が掲載された。

1941年3月、このシガレット・ケースは39年以来、上海でユダヤ関係機関長であった犬塚惟重海軍大佐が、300名のユダヤ神学生を日本占領区域に収容してくれたこと、1万8,000名のドイツ、オーストリー、ポーランドからの避難ユダヤ人を救ったことへの感謝の印に贈られたものである。

このシガレット・ケースは犬塚未亡人から米国のラビ・トケイヤーの手を経て今、エルサレムのヤッド・バシェムに贈られ、大虐殺追悼記念館の収集品に加えられた。

(寄贈)式はアラド総裁事務室で地味に挙行され、犬塚大佐がこの贈り物を受け取るまでの経緯を総裁が述べ、ユバル副総裁が1948~49年に上海で見聞した犬塚大佐は学者肌で人道主義の寛大な日本士官で、特にユダヤ民族の更生に力を尽くした非凡な人物との評価を披露した。

また、彼の指揮によって、日本人学校校舎が避難ユダヤ人たちの宿舎になり、病院建設に協力したり、シナゴーグ(ユダヤ教教会堂)建設工事にセメントを融通するなどの助力を惜しまなかった。

上海へのユダヤ難民

上海に最初のユダヤ人難民が流入したのは、1938年秋、ナチスが当時ヨーロッパで最大のユダヤ人口を持つオーストリアを併合してからであった。その後、チェコ、ポーランドとドイツの支配圏が広がるにつれて数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるをえなくなったが、彼らの目指すアメリカ、中南米、パレスチナなどは入国ビザの発給を制限していた。

ユダヤ難民がビザなしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備地になっていた虹口(ホンキュー)地区だけだった。ここにユダヤ難民がどっと押し寄せたのを、現地ユダヤ人らが、もとの小学校や中学校などの無人の建物に収容して、給食や生活保護を行うことにしたのだった。船が着くたびに上陸するユダヤ難民はたちまち1万8,000人に膨れあがった。

1939(昭和14)年夏、犬塚大佐は東洋一と言われた17階建てのブロードウェイ・マンション・ホテルの16階に事務所兼住居を定めた。25畳ほどのリビング・ルームにベッド・ルーム、クローク・ルームなどを備えたスイート・ルームだった。謀略嫌いの海軍の工作機密費はわずかだったので、犬塚は自分の退職金をすべてユダヤ工作につぎ込むつもりだった。

海軍武官府からは贅沢だと非難する向きもあったが、哨兵の立つ武官府ではユダヤ人達が気安く出入りしにくく、また極東のユダヤ財閥の首脳部に応対するためには、こうした見栄も大切だった。

栄達の道を投げうって

陸軍でのユダヤ問題の第一人者・安江仙弘(やすえのりひろ)大佐に対して、犬塚大佐は海軍の第一人者であった。そのユダヤ研究は海軍内でも着目され、首脳部から命ぜられて、1928(昭和3)年からは大使館付き武官補佐官としてパリに駐在して、ユダヤ社会での見聞を深めた。1930(昭和5)年12月に帰国してからは、軍令部で防諜、思想戦、ユダヤ問題の統括を任され、言論界の指導層に対して、「ユダヤ民族には共産主義者や米国での反日主義者もいるが、八紘一宇の精神で人道主義的、平和主義的に転向させるべき」と説いた。

昭和13(1938)年には、安江大佐とも協力して、関係方面に精力的に働きかけ、世界中で排斥されつつあるユダヤ難民に対しても、他国人と同様の公正な取り扱いを行うという五相(首相、陸・海・外・蔵相)会議決定を実現した。

満洲・北支(シナ)方面のユダヤ工作は安江大佐が担当していたが、上海の海軍警備地区内での難民対応、ユダヤ財閥の反日運動対策、そしてユダヤ人が実権を握る米国マスコミへの工作を考えると、犬塚大佐は上海に腰を据えて、ユダヤ問題に専念しようと決心した。

ちょうど、人事局の方から「少将への昇進の過程として、一時、海上勤務にまわるように」という内意がもたらされたが、自分がユダヤ問題を担当することが日本にとってもユダヤ人にとってもよい、との判断から、栄達の道を投げ打ち、予備役編入とともに、上海勤務を願い出たのである。

ユダヤ居住区設定の提案

上海に居を構えて数ヶ月後、1939(昭和14)年12月21日、犬塚大佐は上海ユダヤ首脳部から午餐の招待を受けた。ユダヤ避難民委員会副会長M・スピールマンが、ヨーロッパ各国を歴訪した結果を聞く集まりであった。報告は非常に悲観的なもので、9月の第2次大戦の勃発により、パリやロンドンのユダヤ人団体からの上海への送金も途絶えてしまった。またアメリカのユダヤ人団体もヨーロッパでの大量難民救済に追われて、上海への送金もいつ停止するか分からない状態だった。

万策尽きた段階で、犬塚大佐は「一つ私からの提案がある」と切り出した。

アメリカに日本の必要物資を供給させることができれば、私はユダヤ難民に満洲国か支那の一部をユダヤ人居住区として開放し、まず試験的に2、3年にわたり、毎年約1万5,000人ぐらいの避難民を移住させる案を考えているが、皆さんはこれを支持できるだろうか?

一同は即座に賛成したが、アメリカのユダヤ勢力が国務省を動かして、日本への重要物資禁輸政策を転換させるだけの力があるかどうかは分からなかった。犬塚大佐は「国務省に対し、全力を尽くして運動します」と約束すれば、日本政府はユダヤ居住区の案を好意的に考慮するだろうと答えた。

ユダヤ人居住区を求める請願

その翌々日、満洲ハルピンにて第3回極東ユダヤ人大会が開かれ、日本、および満洲帝国が人種的、宗教的差別をせず、各民族に平等に権利を認めている点を感謝する決議を行った。その間に秘密代表会議が開かれ、犬塚大佐の案に基づいて、日本政府にユダヤ人居住区設定の請願をし、アメリカのユダヤ人社会に協力を求める決議を行った。

大日本帝国は、…極東在住ユダヤ人に対して、八紘一宇の国是に基づき、人種平等の主張を堅持し、何らの圧迫偏見なく、大なる同情をもって保護を与え居らることは、我ら同族の感謝に堪えざるところなり。…帰るに国なき我ら同族に対し、大日本帝国の尽力により極東いずれかの方面にユダヤ民族のため、一部の地域を設定し、安居楽業の地を与えられなば、我ら全世界ユダヤ民族の幸福にして永遠に感謝するところなり。…

1939年12月25日

      極東ユダヤ人代表会議議長 カウフマン

大日本帝国 内閣総理大臣 阿部信行閣下 

米国ユダヤ人指導者の反日姿勢転換

ステファン・ワイズ・ユダヤ教神学博士は、米国のユダヤ指導者階級の中心人物のみならず、全世界ユダヤ民族の指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、必ず影のようにワイズ博士がついていたと評され、その政策を左右する実力を持っていた。

このワイズ博士が頑迷な反日主義者だった。1938(昭和13)年10月、米国ユダヤ人代表会議での対日態度決定の討議でも、ワイズ博士がただ一人、対日強硬姿勢を主張したため、遂に未決定に終わったことがあった。1938年と言えば、その前年12月にハルピンで第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、この年3月には約2万人(一説には数千人)のユダヤ難民がシベリア鉄道経由で満洲に押し寄せ、吹雪の中で立ち往生している所を、樋口季一郎少将が中心となって、特別列車を出して救出していた。

こうした事実にも関わらず、ワイズ博士が反日強攻姿勢を貫いたのは、ナチス・ドイツ敵視からその友好国日本も同様の反ユダヤ国家と見なしていたためであろう。

しかし、上海のユダヤ人指導者から犬塚提案がもたらされると、ワイズ博士の態度は大きく変わった。東京在住のユダヤ人を通じて、次のような回答がもたらされた。

ユダヤ避難民問題を日本において解決せんとの案なれば、それがいかなる提案にせよ、もし日本の権威ある筋よりのものとせば、我らユダヤ機関は深甚の考慮を以て受理すべきものなり。

またワイズ博士はその友人に、もし真に日本政府が満洲国においてユダヤ避難民問題の解決に興味を有するならば、「公然と日本の友たるべき決心」である旨を伝えたという。

ユダヤ人の日本支援案

居住区設定に対しては、陸軍側から、これ以上の難民収容は物理的に困難だとか、ナチスの反ユダヤ思想に影響されての反対があったが、犬塚大佐は粘り強く反論していった。犬塚大佐の根回しが奏効しつつあった1940年9月、大佐の意を受けた日本人ビジネスマンが、ニューヨークでユダヤ首脳と会談し、次のような合意に達した。

日本側は上海虹口側に住むユダヤ難民1万8,000人を含めて3万人を上海浦東に居住地区と定め、米国ユダヤはこれに対して2億円の対日クレジット(貸付け枠)を設定し、うち1,200万円で避難ユダヤ人の失業救済として皮革会社を設立し、残余の1億8,800万円は日本の希望する物資、屑鉄、工作機械などを無制限に供給する。これの公式請願と具体案協議のため、米国ユダヤ数名を日本に派遣する。

米国の戦略物資の対日禁輸を打ち破るかもしれない画期的な合意だった。ワイズ博士の親日への転向が大きな原動力となっていたのであろう。

米国の禁輸政策が、日本の軍事力を時々刻々と弱め、座して死を待つよりは、と開戦に立ち上がった経緯を考えれば、この合意が成立していれば、日米開戦は避けられたかもしれない。しかし、それからわずか1週間後の日独伊三国同盟締結のニュースが、この合意を吹き飛ばした。ユダヤ首脳は次のように言って、肩を落とした。

実は日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種偏見を持たず、公平に扱ってくださる事実はいろいろな情報でよく知っていました。その好意に深く感謝し、今回の借款でその恩に報い、われわれの同胞も救われると期待していましたが、今日の米国政府首脳や一般米人の反日感情の大勢に逆行する工作を行う力はありません。政府は対日クレジットや戦略物資輸出は許可しないでしょう。残念ながらわれわれの敵ナチス・ドイツと軍事同盟した日本を頼ることはできなくなりました。

「命のビザ」の陰に

このような大きな工作の傍らで、犬塚は地道なユダヤ人保護の活動も続けていた。この年の7月26日、上海ユダヤ中でも最高の宗教一家アブラハム家の長男ルビーから、「宗教上の大問題でぜひ会っていただきたい」と電話があった。

ポーランドがドイツとソ連に分割され、ミール神学校のラビ(ユダヤ教の教師)と神学生ら約500人がシベリア鉄道経由でアメリカに渡るために、リトアニアに逃げ込んだという。そしてアメリカへの便船を待つ間、日本の神戸に滞在できるように取りはからっていただきたい、というのが、ルビーの依頼であった。

宗教上の指導者ラビと神学生を護ることはユダヤ人にとって大切なことであり、将来これらの人々が世界各地のユダヤ人の宗教上の指導者として多大の影響を及ぼすことは、犬塚大佐はよく分かっていた。

「よろしい。ユダヤ教の将来のために、さっそく関係当局を説得しよう。期待して待っていてよろしい」

大佐が胸を叩くと、ルビーは涙ぐんで「アーメン」と指を組み、伏し拝まんばかりに感謝した。犬塚大佐は外務当局に働きかけ、公式には規則を逸脱したビザ発給は認められないが、黙認はすることとなった。この情報が上海のユダヤ首脳部を通じて現地にもたらされ、神学生たちは8月中旬、リトアニアの領事代理・杉原千畝からビザを受けることができた。ただし杉原はこの「黙認」の工作を知らされず、発給規則逸脱で職を賭して「命のビザ」を書き続けたのである。

「上海は楽園でした」

この件で、感謝の印として贈られたのが、冒頭のシガレット・ケースだった。それまでユダヤ人から何一つ受け取っていなかった犬塚大佐だが、自分のイニシャルと感謝の辞が刻まれてあったので、快く受け取った。

また犬塚大佐のユダヤ人保護工作への感謝から、ユダヤ人の恩人としてゴールデン・ブックに記載したいという申し出があったが、犬塚は「私は陛下の大御心を体して尽くしているのだから、しいて名前を載せたければ陛下の御名を書くように」と固持した。

日米開戦後も犬塚大佐のユダヤ人保護工作は続いた。1942(昭和17)年1月、ナチスがユダヤ人絶滅の決定をした頃、上海ユダヤ人絶滅のためにドイツで開発したガス室を提供するという申し出があった。それを阻止したのが犬塚大佐だった、というユダヤ人の証言がある。

大戦中も「上海は楽園でした」という詩を当時の難民生活を経験したユダヤ人女性が残しているが、その楽園の守護者は犬塚大佐だったのである。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock , Wikimedia Commons

『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』

著者/伊勢雅臣

購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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出典元:まぐまぐニュース!